琉球古武道について
平信賢(1897~1970)は1922年に上京、船越(富名腰)儀珍(1866~1958)に空手を、1929年には屋比久孟傳(1878~1941)や魔文仁賢和(1889~1952)に古武術を師事し、1933年、群馬県伊香保に船越義珍の松濤館支部道場を開設、空手と古武術を教え始めた。
1942年、平は沖縄へ戻り、太平洋戦争終結まで過ごす。戦後、平は古武術の保存と新興を目的に、師、屋比久孟傅が創設した琉球古武術研究会を母体とし、琉球古武道保存振興会を1955年(昭和30年)に設立。平は初代の会長となり、団体の発展のために力を尽くした。
1970年、平信賢亡き後を継いで、高弟の赤嶺栄亮が二代目会長に就任した。赤嶺栄亮は平信賢に師事する以前に、知念三良(ヤマンニーヌウスメー)(1840-1922)の直弟子である比嘉成一郎・比嘉来助・赤嶺要平・比嘉仁三郎に師事し、それぞれ佐久川の棍・周氏の棍・米川の棍・白樽の棍などの型を習得した。赤嶺栄亮は琉球古武道の保存継承に力を注ぐと共に、その発展にも努め県内外13の支部道場を開設しその普及に努めた。
琉球古武道賢亮流協会について
与那嶺幸助は、沖縄に数ある古武道組織と区別する為、2000年1月1日の琉球古武道保存振興会佐敷支部道場千年紀を記念し、支部道場の流派名を【賢亮流】と命名した。
流派名【賢亮流】の成り立ちと、琉球古武道賢亮流協会の発足について
「賢亮流の解説」
沖縄古武道の世界では数多くの組織があるが、其々の組織名で活動しており、ほとんど流派名が無い。よって、他の組織との区別が解りやすいように、前述の通り、支部道場の流派名を【賢亮流】と命名した。
この【賢亮流】の意味の成すところは、琉球古武道保存振興会初代会長である、平信賢(1897~1970年)の「賢」と、与那嶺幸助の師匠である二代目会長、赤嶺栄亮(1970~1999年)の「亮」の文字をとり、両先生の名声を未来永劫、後世に残す意味をもって命名したところにある。
字義的には「賢」は徳行才能に優れた人、「亮」は物事に明るいことを示す。すなわち「賢亮」は、武術に優れ心が明るく、琉球古武道を通して世界が平和で、人々が公正かつ健康であり、また、健全な精神の育成をはかることを標榜する。
2012年(平成24年)、心機一転、新しく琉球古武道の組織を結成する運びとなり組織名に賢亮流を付加し、琉球古武道賢亮流会を発足。そして、翌年、組織の拡大とともに琉球古武道賢亮流協会へ改称した。
「図柄について」
平成24年10月、当時東京深川道場鍊士六段であった新垣昭善氏が考案した。意味は以下の通りである。
1、円心部 沖縄県章をあしらった。
2、三つ巴 尚徳王(1461年~1469年)以来の王家の家紋、琉球王統の象徴で渦巻く左旋回の水の勢い、
3、釵
イ、サイは人体を意味し、交差してるのは和をもって貴しと成す。
ロ、先が上に向いてるのは、天に伸び発展する賢亮流の司令塔である。
4、図柄の中の「佐敷」文字は
イ、15世紀初頭(1416年)三山鼎立時代に終止符を打ち、統一国家樹立(三山山を統一)という覇業を成し遂げた英雄、尚巴の輩出した緑の地「佐敷」である。
ロ、琉球古武道賢亮流協会(賢亮会)の誕生の地、本部所在地の「佐敷」である。